T 財団設立の経緯

 

1 財団設立の経緯

 

当財団は、設立者木原崇雲翁が、三重、和歌山、山口3県下の所有山林667ヘクタールを寄附し、これを基本財産とする財団の設立を申請し、昭和41年12月6日農林大臣の許可を受けて設立された。

設立者木原崇雲翁は、若い頃から公共に対する奉仕の念の極めて強い人であり、また、翁と共に世の辛酸をなめ尽くし、労苦を共にしたヨシ夫人もまた、己を空うし、世に報いる心の極めて厚い人であった。そのヨシ夫人が、昭和41年4月1日に亡くなられた。翁は、ヨシ夫人の他界を機に、世に報いる心の厚かった夫人の志を末長く生かす方法として、この財団の設立を思い立ったのである。

 木原翁は、国土に立派な森林を造成することは、国民の生活を健全に維持、発展させるための極めて重要な基礎条件となるという考えから、財団の事業、運営をその趣旨に添ったものにしようと考えられた。また、山林を財団の基本財産として寄附したのは、これを合理的に維持、経営していけば、そこからあがる収益によって公共のための奉仕が恒久的に行なっていけると考えられたことによる。

 以上の翁の意を体して、昭和41年5月21日財団設立準備委員会が設けられ、犬丸實氏(当時恩賜財団済生会理事長、その後当財団二代目理事長)が委員長を引受けた(当委員会の委員は、財団発足時全員役員となった。)。準備委員会は、6月に入ってから頻繁に開かれ、関係官庁の御指導を得ながら想を練り、設立趣意書、寄附行為、諸規定等を整備した。他方8月頃から評議員の委嘱に入り逐次評議員就任の御承諾を得た。これらの準備の過程では、木原翁の基本精神を、設立される財団の事業、運営のなかで如何にして具体的に実現することができるかについて、しばしば厳しい議論が行なわれた。当時は、昭和30年代なかばの池田内閣による所得倍増政策の後を受けた佐藤内閣時代のいわゆるイザナギ景気と稱する急激な経済成長に入る時期に当たり、「自然保護」という考えは、未だジャーナリズムに登場していない頃であった。森林の自然的効用が、人間の存在と人間社会の健全な発展にどれだけ重要であるかという認識については、未だ啓蒙期にあり、政府の中央公害対策本部(本部長 佐藤内閣総理大臣)すら昭和45年に至って設けられたのであり、「社会開発」に名を借りる行き過ぎた自然軽視の風潮が、大手を振ってまかり通っていた時期であった。こうした時期に、木原翁の精神を掲げて財団を作り、その精神に則って森林保護に関する公益事業を行なおうとしたことは、当時としては先駆的な試みであった。従って、それを如何にして実現するかは、財団関係者にとって極めて真剣な課題であった。

 また、財団の名称を「木原営林大和事業財団」としたのは、まず木原翁が永い間抱いてきた公共に尽くそうという財団には「木原大和事業団」と名づけるようにとの啓示を翁が夢うつつのうちに感得されたことと、さらに故ヨシ夫人の戒名「栄林院殿豊室良光禅大姉」の「栄林」にちなんだことによる。

 こうした経緯を経て、漸く10月に入り主務官庁へ財団設立の許可申請書を提出し、その年の12月6日に設立の許可があったのである。考えてみれば、5月末から準備行動に入り、12月に既に設立の許可があったということは、財団設立までの期間としては異例の短期間であったかもしれない。関係官庁の御理解と御好意によるものと感謝している次第である。

 財団の設立の経緯は以上のとおりであるが、この設立時期は、さきに述べた佐藤内閣時代のイザナギ景気による経済成長の入口の時期に当たっていた。日本の産業構造は急速に重化学工業化されるに至り、実質国民所得も急増した。これを住宅投資についてみると、昭和30年代後半の所得倍増政策時から活発になり、35年から36年にかけて木材価格も急激な上昇がみられた。その後木材供給不足を補うため外材輸入が進んだが、それにもかかわらず住宅建築を中心とする建設活動の増進とこれに国産材人気もあずかって、その価格は40年代に入ってもなお上昇を続けた。

 このような時期に当財団の設立が積極的に構想されたのは、林業が諸種の問題を抱えていながらも、急激な経済発展のなかにあって、木材価格の上昇という林業事情がその背景にあったからだと考えられる。財団が基本財産としての山林を合理的に維持、経営さえしていけば、それによって長期的に公益事業を行なうことが出来ると考えたことは、こうした当時の経済状況、林業の活況の下では、無理からぬものがあったと思われる。

 

 

 

「財団法人木原営林大和事業財団30年史」より転載


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